ごあいさつ 〜 店主のそばに対する思い、大工哲弘氏の推薦文

一 そばが「ごちそう」だった頃


 昭和20年代末、戦後間もない頃、石垣の街に出てそばを食べて映画を観るのが島人にとって最高の贅沢でした。そば屋に連れていってもらえると聞いただけで子供ながらに胸を弾ませたものです。そばとはそういうものでした。

 遡って昭和初期・大正期もそばはごちそうだった、と古老も口を揃えます。


二 ごちそうだった理由


 そば造りは労を要しました。先ず、麺造り。小麦粉を木灰汁の上澄み液で丁寧にこね上げ、麺棒でのばし、包丁で適度な幅に裁断し、しばらく寝かせた後、茹でて、油をまぶします。他方、スープは島豚の赤身肉や骨をダシにじっくり煮込みます。薪を使っていた当時は、一日仕事です。多忙な庶民の家庭で、日常的にこのような手間暇をかけることはできませんでした。

 また、豚肉は貴重でした。祝いの席や年中行事等でしかお目にかかれない高級食材でした。アメリカ軍の配給のあった戦後の一時期を除いて、小麦粉が豊富にあったとも考えられません。

 こうした事情から、そばは庶民には滅多に食せない「ごちそう」だったのです。


三 ところが今や・・・


 時代は変わりました。今や大量生産・大量消費の世の中で、そばは沖縄ファーストフードの代表選手です。かつて市内に軒を連ねたそばだけを扱う専門店は近年めっきり少なくなりました。

 さらに、観光化の影響か、そばそのものも多様化したように思います。麺の形状、風味、だし汁からトッピングまで、八重山そばはすっかり様変りしていると言っても過言ではないでしょう。

四 昔風そばに立ち返って


 私どもは、このような現状を捉えつつ、市内で数少ない「八重山そば専門」の看板を掲げました。原点に立ち返り、「ごちそう」だった頃のそばを追求したいと思います。

 当店では、専門店の名に恥じぬよう、麺・スープ・具のみならず、香辛料のピパーズまでこだわりました(詳しくはこだわりをご覧下さい)。

 どうぞ、ご来店の上、当店のそばをご賞味下さい。スタッフ一同お待ちしております。



(追記)八重山そば専門店へのリニューアルに際しては、かつての八重山そばの味や形をめぐり、数多くの島の先輩方・友人たちから有益な助言を頂きました。彼らの協力無しには専門店の看板を掲げることは出来ませんでした。この場を借りて厚く御礼申し上げます。


店主・新垣 重雄(あらかき しげお)

 1948年生、石垣市宮良出身。八重山高校在学時、郷土芸能部を数人の仲間と設立し、初代部長を務める。翌年発足した八重山農林高校郷土芸能部の初代部長だった大工哲弘氏とは旧知の仲。

 現在、店舗経営の傍ら、地元FMで番組を担当。


FMいしがきサンサンラジオ76.1Mhz=石垣市のほぼ全域、竹富町の一部 からも視聴可能)

毎週金曜14時〜15時「島唄への誘い」

ユンタ・ジラバを中心に島唄全般を紹介しています。


僕の故郷・石垣島のスバ一番


 親父の手伝いをしていた幼少の頃、年に二回の稲収穫期に村の青年達がユイマ~ル(*1)。収穫を終えブガリノ~シ(*2)に出てきたスバを先輩達と一緒に美味しく頂いた昔を、「島スバ一番」のスバを食べる度に思い出す。

 多様化される沖縄・八重山のスバであるが、「島スバ一番」の出汁味、昔ながらの平麺切りでコシがあって歯ごたえの良い麺、さり気ない具、どれも伝統的な麺技は正に僕の故郷・石垣島のスバ一番である。

 優しい味は、きっと食べた人達の日頃の疲れ、旅の疲れを癒してくれるであろう。


*1 農作業等を村落内で相互に手伝い合う慣習。

*2 疲れ治し。慰労会。

大工 哲弘

(だいく てつひろ)

 1948年生、石垣市新川出身。八重山地方に伝承される多彩な島唄をこなし、八重山民謡の第一人者としての地位を築いている。

 1998年沖縄県無形文化財(八重山古典民謡)保持者に指定される。


オフィシャルサイト

大工哲弘でんさー通心